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【常設展示室コラム(2)】戦争体験

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戦争体験


 昭和8年、太平洋美術学校在学中に、実業之日本社「日本少年」誌上でデビューした那須良輔は、「キング」(大日本雄辯會講談社)「日の出」(新潮社)など各社の大衆雑誌でも活躍し、一見順調な漫画家生活を歩んでいきます。

 しかし、その背後には戦争の足音がひたひたと迫っていました。

 昭和12年7月、那須先生は一度目の召集令状を受けます。この時は病に侵されたため戦地へたどり着く前に召集解除されますが、翌年3月には実業之日本社所属の従軍記者として中国へ渡り、その地で熊本県より二度目の召集令状を受けます。

 この時那須先生が配属された「第百六師団」(松浦淳六郎師団長)は、武漢攻略戦において壊滅的な打撃を受け、特に那須先生がいた300名の中隊は、四方を山々と敵軍に包囲された三週間余りの戦いの末、わずか16名しか生き残ることができませんでした。


 その後、昭和15年に召集解除された那須先生は結婚、さらに近藤日出造(政治漫画家)主宰の雑誌『漫画』に初めて政治漫画としての作品を発表するなど、つかの間の平穏な生活を得ますが、昭和16年になんと三度目の召集令状が届きます。あと一週間で待望の第一子が誕生しようかという時でした。


 「私は思わず大声で、「バカタレ。」と叫んだ。召集令状は公平に配達されるものと思い、国のために戦うのだと信じていたが、政府高官の子弟は徴集のがれができたことを知ったのである。政府は俺をあくまで殺すつもりなのかと思った。……生まれて来る子どもの為にも唯生きて帰ることだけを心に誓い、男女の子どもの名前を書き残して三たび戦場へと立った」(p24)

那須良輔(1985)『漫画家生活50年』,平凡社.


  • (まんが『那須良輔物語 風を描く人』65ページより)


 これ以後、那須先生が祖国に残してきた妻とまだ見ぬわが子に向けて戦地から送り続けた手紙が、今日「戦場からの手紙」と呼ばれている作品群です。

 那須先生はソ連・満州国境地帯にあるハイラル要塞に派遣され、約一年後には新京の関東軍司令部に転属となり、昭和18年に召集解除されるまでこの地で対ソ連用の伝単(敵国の戦闘員の戦意喪失等を狙って撒かれたビラ)制作等に従事しました。

 そして、昭和20年8月15日、疎開先の故郷湯前にて終戦を迎えます。


 「男達は大声で、そんな馬鹿なはずはない、ウソだろう、とヤケになってどなりながらシャベルや鍬を塹壕の中にたたき込み、年寄りや女達は声をあげて泣きだした。私は心の中で、やっぱり負けたか、と来るものが来た感じだった。大本営参謀部の対敵謀略宣伝の嘱託をしていた関係で、私はおのずと日本軍の戦力の限界を知っていたのである」(同,p46)


(まんが『那須良輔物語 風を描く人』72ページより)


ギャラリー

 

 「戦争体験」ゾーンに現在展示されている作品は、以下の通りです。

  • 「皇軍敗走」 制作年不詳

  • 「うじ」 制作年不詳

  • 「アダムとイヴ(終戦七周年)」 1952年8月頃

  • 「情容赦もあらばこそ」 1956年5月頃

  • 「沖縄は悲しからずや(一 女と爆弾)」 1959年8月

  • 「ママの国」 1957年8月

  • 「麦の穂」 1946年


 順調だった東京での漫画家生活を諦め、家族を残して三度にわたって異国の地で戦った那須先生が目にしたのは、祖国の敗戦という現実でした。国民は飢餓にあえぎ、闇市で不当な価格の食糧を買い求めます。

 「麦の穂」には、天に向かって立派に伸びる麦の葉に横たわる、痩せこけた男性が描かれています。戦中から続く慢性的な食糧不足と貧困がその背景にあります。

 また、進駐軍と日本人女性、沖縄米軍基地問題をテーマにした「ママの国」、「沖縄は悲しからずや(一 女と爆弾)」、水爆実験をテーマにした「情(なさけ)容赦もあらばこそ」、軍備を解いたはずの日本が国防のための”保安隊”(自衛隊の前身)という禁断の果実に手を伸ばすさまを描いた「アダムとイヴ(終戦七周年)」など、那須先生は人と人、国と国とが争い合うことの悲劇が決して終結していないことを様々な形で表現し続けました。

 政府や政治家、強権的な力を行使しようとする者たちへ、常に疑いと批判の目を向けた那須先生の創作姿勢の裏には、「うじ」「皇軍敗走」などの作品描写に読み取れる、凄惨な戦争体験があったのです。


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